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2010年8月

2010年8月27日 (金)

【お知らせと訂正】8月28日、21時から放映のNHK教育番組に出演します

この直前のアップに、一部情報の誤りがありました(当該の記事には訂正を反映済みです)。

私が出演する『ETVワイド ともに生きる 薬物依存』(NHK教育)の放映時間は、21時から23時です。
おおむねおたおたしておりますが、たまにいいことも言うかもしれません。

2010年8月26日 (木)

【お知らせ】8月28日、NHK教育「ETVワイド」に出ます

8月28日(土)、NHK教育テレビ『ETVワイド ともに生きる 薬物依存』に出演します。
放映は21時から23時。ぜひご覧になって、私のダメぶりに噴飯などしてください。

主題は、「薬物依存症」。『ハートをつなごう』という石田衣良さんが司会の番組で7回ほど続いた主題が、このたびETVのワイド枠として扱われたもののようです。

私にオファーがあったのは、一時期の私の小説の作風が、生きづらさや依存症を強く連想させたからだと思う。
私自身には物質への重い依存症の経験はない。ただ、私は依存症になりやすい性格のほとんどすべてを備えていた。だから依存症の人たちは他人と思えなかったし、げんに依存症者や依存症からの回復者の友達が多くいる。
彼らは、ある事情で青春がなかった(と思い込んでいる)私が、生まれて初めて本音で話せた友達かもしれない。33歳ころだ。あはは。

依存症には大きくふたつにわけて「物質依存」と「プロセス依存」がある。薬物やアルコールは「物質依存」。恋愛、セックス、買い物、過食、過食嘔吐などは、「プロセス依存」である。携帯依存症、携帯メール依存症もあると思うし、今最も旬なのは、「ツイッター依存症」かもしれない。

依存の背景にはよく、承認されることへの飢えがある。
そういう人が、手っ取り早く「つながっている感じ」や「認められる感じ」を得ると、そのこと(物質やプロセス)がやめにくい。
手紙よりメールに依存しやすいのは、反応の速さが快感だからである。しかし、その反応の速さは、苦痛にもつながっていく。自分もまた速く反応しなければ「終わる」「見捨てられる」不安があるからだ。
そしてそれが苦しくなったり、そのことが一日の大半を占めるようになって他の事をほとんど考えられなくなったり、経済的に困窮したりしても、やめられない。ここには、依存症の質の第一歩がある。
携帯メールやツイッターでこういう人ならば、案外多いのではないかと思う。

で。
8月24日、えねーちけーに三時半からなんと十二時半までいた。

収録は、覚醒剤防止キャンペーンのポスターから始まった。
なぜかレギュラーでもない私が、司会者と一緒に立つ羽目となり(聞いてませんでした!)、こんなポスターに対して考察する。
パネルには、当該のポスターの二十数年のよりすぐり!
そしてあの有名なコピー。

「覚醒剤 ダメ 絶対」

コピーとともに女のタレントがにっこり、スポーツで汗を流している、などが典型的で、有名スポーツ選手、中には女性タレントと貴乃花のコラージュなんていうものも。
「プ~ンと臭う青春」なんてコピーのついた、ウィンドサーフィンの画像のもあったな。爆笑しかできなかったけれど。

なんつう想像力のなさだろうね。
このコピーはなんと、1987年からビタ一文言も変えられていないらしいのである。

日本各地に遍在する論法の典型がここにも。
「戦争 ダメ 絶対」
というのと、驚くほどよく似ている。
「ダメ 絶対」と何度言っても、抑止力にはならない。
「絶対」は、ない、絶対に。
戦争をやめる唯一の方法は戦争をよく知りぬいたうえで、その無益さを知り止める意志を持つ人が、戦争をする意志を持つ人の力を上回ることだ(戦争は、つまりはそれによって得をする人も多いので止まらないという側面がある。得をする側にあなたやあなたの家族がなったとき、それでも「ダメ、絶対」と言えるかが問われる)。

絶対にと言った時点でもう嘘である。
このポスターはやる気あんのかと、納税者は問うべきである。
事実、1987年からコピーを変えないなど、やる気のなさを隠すためにつまらないポスターがつくられ税金が無駄遣いされているとしか言いようがない。

しかしこの論法は手を替え品を替え、日本文化の各地で出てくる。
いじめがあったら、企業不正があったら、事故があったら、まずは隠せれば隠す。隠し切れなくなったら、こう言う。

「絶対に起きてはならないことが、起きてしまった」

ちがいます。

「起こりうることが、起きた」
です。

そう前提しないと、原因も対策も、何もクリアに追究できない。
善悪でなく、ものごとには原因が複合的にあり、それが解明できれば、対策が立てられる。

でないと繰り返される。

人はミスをする。
人は正確な判断を下せないほど疲れていることもある。
人はたまには自暴自棄である。
人は過ちを犯しうる。
人は時に誘惑に負ける。
人は正しい情報を知らないことがある。
人は状況に流されることがある。
それはまずは「悪」ではなく、人の「自然」である。
しかし、
よりよく生きたいと願えるという「自然」を持つのもまた、人間だけ。

「絶対あってはならない」と言うと、人間の自然としての弱さも、意志の可能性も、否定することになる。

もし、日本語も覚醒剤のなんたるかもわからない人が覚醒剤撲滅キャンペーンのポスターを見たら、
「これ(この場合「覚醒剤」とやら)をするとこんな明るい生活ができる」というポスターであると思われるに違いない。

これ、栄養ドリンクのCMもそうである。
疲れても、この栄養ドリンクを飲めばあなたもがんばれる!
(疲れたら休めよ! 身体はそうできているし、そのサインを出している)

もっと言えば、生理ナプキンの宣伝だって、そうである。
生理中の元気のない女の子が、ナプキンをつけると元気でアクティヴになってしまう!
んなわけないじゃんか!
生理中は、過剰な元気さを控える期間なんだよ。
めんどうくさくもあるが、女性はそうやって自然なバランスをとらされるので長生きだとも言えるである。

とにかく。
過剰な元気を求める文化。
これは行き詰る=息詰まる。

この文化自体、覚醒剤的なんである。

歴史を遡れば、合法覚醒剤、商品名ヒロポンが、そうだった。

(つづく)

2010年8月 9日 (月)

心の風景


 Dsc00544_2 初めて一眼レフカメラを買った。今まで写真は好きで、買わなかったのは不思議。いや、一度中古を買ったことはあるのだけれど、なにせ紙の管理というのが苦手で、結局デジタルの一眼レフが発達するまで待ってしまった。
 とはいえデジタル一眼が賢くなっても、私はまだ手を出さなかった。理由は、大きいから。「この大きさは、私は持って出かけない」という直感みたいなものがあった。私にとって何より大事なのは機動性で、思い立ったとき出かける(そのとき動けないと動かないというのは腰の重さの裏返し)、あるいは「今日は光が良くて、光ハンティングに行きたい!」みたいにどうしようもなく思うとき、ママたちをターゲットにしたらしきキャノンEOS Kissでも心理的に大きく感じてきた。そう、Kiss購入を検討したこと、あるんだけど。

 したっけある日見たソニーのCMに目が釘付けじゃんか! 浅野忠信が屋久島を歩いていて、ファインダーの中に一本の木をとらえる。屋久島は雨の森の島で、まあ、視界のすべては緑したたる森なんだ。そこで一本の木をとらえ、ピントを合わせていくにつれ、背景がぼやっと溶けてゆく。そこでコピー「背景がぼけると、心が動く」
 そう! これこれ! これがやりたかった! テレビの前で、叫ぶ私。
 一眼レフに私が望むものは多くはなかった。「背景をぼかす」! これはバカチョンと呼ばれるコンパクトでは出来ない。こ、これだーっ! 頭ん中で鐘が鳴る。
 専門用語ではこれは「被写界深度」という。だがそんなことはどうでもいい。私は背景をぼかしたいだけっ! 背景溶けてりゃうれしいっ!  ソニーでかした! カメラメーカーではないので、へたれなユーザーの声をキャッチできたのかもしれない。こういうのは、大事なことではないかと思う。

というわけで、とはいえケーズ電気で店員さん二人、メーカーから派遣されてきた人とお店の人とをつかまえてのべ三時間くらい質問したのだが、ソニーのデジタルカメラが私の新しいおともだちとなった。かくなるうえはキャプテン翼にサッカーボールが友達であるくらい、友達になろう。
 そして毎日いじって遊んでいるのだが、Dsc00555やっぱり面白い。うきうきする。バックパックに詰めても、心理的物理的にあまり負担にならない。だから普通に出かける時に持って行ったりする。
 ある日、家で育てているハイビスカスのヒヤシンス(ハイビスカスに、つけた名前が「ヒヤシンス」。家の人がハイビスカスをヒヤシンスと言ってしまうので。私はなぜかローマ神話のヒヤシンスの話が好きだが、フリスビーみたいな輪っかにぶつかって命を落とす美少年の神話が、なぜ好きなのか、自分でもよく理解できない。そしてその涙だか血だかから生まれた花がヒヤシンスでござる)、そうハイビスカスのヒヤシンス君にカメラを向けているとき、ふと、気づいた。
 背景がぼけるというのは、正確ではない。遠くにフォーカスをロックすると、近くがぼけるものね。
 正確には、「意識を向けたところ以外を、ぼんやりさせることができる」
 これって、「劣った眼」みたいだなあ。
 肉眼として考えたとき、いいのは、どの距離にも簡単にピントが合っている状態。そうでないと、近眼だったり、老眼だったり、両方だったり、ある距離に見合ったピントのあわせ方を、いちいち仕切りなおさなければいけなくなる。私は近眼だが、ためしに裸眼でピントが合う至近にものを置き、そうしてよく見ると風景は「背景がぼけて」いて、絶妙に一眼レフっぽい絵なのである。そしてそんなことに、日々気づかずにすごしていた。ただ、目が悪いのは不便だなあと思いつつ。
 肉眼として考えたときどちらが優れているかといえば、バカだのチョンだの言われているコンパクトカメラの見え方をする眼。
 音感でも似た話を聞いたことがある。人はよく絶対音感を天才肌の証のようにもてはやすけれど、周波数に物理対応する絶対音感は実は原始的な耳なのであって、調がちがっても「音の並びが同じ」と感じ取れる「相対音感」のほうが実はすごいという。これを言ったのはたしか養老孟司であるが、養老孟司の本は対談も含めて読みすぎて、どの本だか忘れてしまった。
 肉体としては劣った機能であるようなことを、「より美しい」と人が感動できたりするのは、面白いことだ。
 それは、心の風景なんだろう。

 

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