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2011年1月24日 (月)

現代を考える 〜〜お年玉と住宅ローン〜〜

未だにお正月のことを考えている。
考えているのは、「お年玉」の発生がいつだったかということだ。
今年も二人の姪にお年玉をあげたが、これは実のところ急な冠婚葬祭の出費があるのと同じ感覚で、ちょっと苦しい。
いつからこんな風習があるのか??

そこで、お年玉が発生したのはいつだったのかというのに今興味を持っている。
私の母親に訊いてみると「自分はそんなものはそんなものはもらったことがないし、昔の人は他人に現金を直接渡したりすることを失礼と考えていた」と言う。

では、なぜその人が親になって子供や子供のいとこや親族の子たちにお年玉を与えたのか?

「ボーナス」に似ているとふと思う。
田中角栄の有名な逸話にも似ていると思う。何かの式典で角栄に花束をくれた女の子に、角栄は自分の財布から札を出してあげようとした。側近がたしなめるのと、「私は一番大切なのが自分の命、二番目がお金。その大切なものをあげて何が悪い」と言った。
日本全国津々浦々の大人たちがそう考えていたとは思えないけれど、お年玉の発生時期が「拝金主義の発生」と重なっていたことはほぼ事実であったように思われる。

子どもが、月々のお小遣いをもらって、ボーナス(お年玉)をもらう。そしてその小さな頭の中で「ボーナス」はすでに織り込み済みの予算である。
それって、サラリーマンみたいだったね。
子どもがサラリーマン予備軍だった時代の象徴的行事だったのだろうか?

誰しも、予想外の実入りがあるのはうれしいことだが、それをあらかじめ想定して消費計画に組み入れてしまうと、話はちがうことになる。
それって「住宅ローン」に似ていたね。

一時代の住宅ローン(今でも少なからぬ割合が)、「定期収入」「定期昇給」「定期ボーナス」を「想定内」とした前提のもとになりたっていた。
だからいま、多くの住宅ローンが破綻している。その住宅ローンの考え方自体、一時代の(まぐれ的)特性に依存しすぎたものだった。

お年玉もその類ではないかと私は踏んでいる。
「昔、『ラッキーコイン』のような感覚で、今の50円や100円程度の『お年玉』(文字通り、玉銭)をあげることがあった」という記述をどこかで読んだことがある記憶もあるけど、欲しい大物玩具を買うような「予算」として子どもがあてにするような「お年玉」が、高度経済成長期以前にあったという記述は、読んだことがない。
知っている人がいたら教えてください。

お年玉・・・
月給があってボーナスがあるようなサラリーマン(正社員)になることが、今やまるで見果てぬ夢であるかのような10代や20代がそれをあげる立場になったとき、消滅するのだろうか。
消えるときは、案外あっけなく消える気もする。消したいという欲求などなくとも。

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