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2011年2月

2011年2月15日 (火)

春に君を想う

幼なじみが死んだ。名前をAという。
Aは私の三つ上の兄の幼なじみだった。私は小さなころ、三つ上の兄について歩いて遊び、なんにも考えずにパンツ丸見せで(おそらく)飛び回っていた子なので、私にとって一緒に育った幼なじみがいるとしたら、この兄の友達だった。
いや、ということに、Aが死んで私は初めて気づいたのかもしれない。

                    *

私はこの兄の友人関係や学生生活、いわゆる青春というものに、憧れていたし嫉妬もした。本人に言わせれば嫌なことも合わないことも大変な目も、それとは別に個人的な悩みもあったろうが、兄の学生時代こそは、私が持ちたくて持てなかったものだった。とにかく彼らは小さなころから絆が強く、泣いて笑って喧嘩して、それでまた一緒にいる、みたいな子たちだった。
いちばん長く過ごした者で幼稚園か小学校から高校まで一緒だ。都立高に学群制度(学区制度)があった時代で、高校までは拡大された地元みたいに思えたのかもしれない。今は受験者個人の希望を優先して廃止された制度だが、いいところもあったのかもしれない。とにかく、杉並の高円寺と阿佐ヶ谷から始まって、中野区と練馬区までが、「拡大された地元」みたいに彼らの身体には体感されていたのかもしれない。隣接区は、端っこまでも、自転車でなら行けるし、がんばれば歩いても行ける。その身体感覚がもしかしたら彼らの密接感とかかわっているのかもしれない。そう思うことがある。それはバブル前の、東京がもう少し小さく、人の身体感覚にもう少し合っていた時代なのかもしれない。あるいは、個人個人の資質だったのかもしれないし、それが性にあっていたという資質の複合もあるだろうが、時代の空気とまったく無関係に生きる人はいない。身体じゅうでコミットしていればなおのことかもしれない。

「お兄ちゃんみたいな学生生活がよかった」と母に言ったことがある。私には、ある理由があって青春がないと思ってすねていた。私も都立高に行けたらグレることも(笑)なかったのになんて思うこともあった。
母曰く「長男(この兄の兄)も、他のどんな代や誰の子の話を聞いてもああいう子たちはいない。あの子たちが特別だから、比べて自分には何かが足りないと思うことはないのよ」。
母は母で、Aの訃報を聞いたとき、自分の母親が息子を若く失った体験を思い出したのか、Aのお母さんの気持ちはいかばかりかと言って目を赤くしていた。

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Aは長患いをしていた。十年以上病院にいた。とにかく最初に倒れた原因を今となっては思い出せないほど、長い長い間入院していて、身体のさまざまな場所を開かれ、ここかと思えば次は思いがけない場所を、そうして臓器に冷たい刃物を入れられ、皮膚を縫い閉じられ、管を刺され、抜かれ、皮膚の内と外から薬を入れられ、しかしそれらが回復には寄与せず、そのたびに少しずつ少しずつ死んでいった。でも入院が長すぎるほど長くて、Aが「元通り」になるとも思えないが死ぬともまた思えない、不思議に平衡したそんな気持ちが私の中にあった。Aの訃報を兄からメールで受け取ったとき、最初、何を思っていいのかがわからなかったことを思い出す。あれは立春を過ぎて風が少しだけぬるみ始めたころだった。

そのとき私の中に強くあったのは「私は通夜に行く」という気持ちだった。気持ちというか、頭の中に点滅するアラームみたいにそれがあった。「『直接の友達』でもない私が?」と頭が理性的な反駁をする。でも、Aは、私が一緒に育った人だ。誰がなんと言おうと自分がなんと言おうと、その事実は消えない。小さな頃から、話しかけてくれて、遊びを教えてくれて、いろんなところに連れていってくれて、私はもらうばっかりだった。

                    *

Aの通夜の日が、私にとっては今年はじめの春の日だった。冬にはない、高い空が、銀色にまぶしく光る曇りの日だった。

通夜では懐かしい顔にたくさん会った。ほとんどの顔を、覚えているものだし、向こうも覚えているものだ。私が会うのは20年ぶり以上なのに。私のことを、小さな時と同じあだ名で呼ぶ兄の女友達もいた。別に懐かしいことを言おうとしたわけではなく、それが彼女のリアリティだったから。私もまた、昔のあだ名でしか彼女を呼べない。たとえそれが、今は当てはまらない彼女の属性を示すものでも。

通夜の後に一席設けてくれた人がいた。兄の高校の友達が中心の会だったが、兄の友達をめぐる面白さは、友達がどんどん合体していくことだった。同じ中学から同じ都立高に進んだ悪友が三人、兄と、Aと、もう一人Yという友達と。この三人のいずれかと友達になった者で、彼らの幼稚園や小学校からの悪友を知らない人は、いない。だから私の知る誰の話題をしても通じる。この不思議な垣根のなさ。雑多感。異質さがごく平然と同居するカオス感。カオスの中の秩序。
その垣根のなさが私にはうらやましかった。
でも、私もそうしてよかったのだ、本当は。羨まなくたってよかった。「私もそうありたい」と思うだけでよかった。
私が一人の心のなかに閉ざされているときも、世界はいつも、そこにあった。本当は手を伸ばすだけでよかった。世界はそこにあった。私がすねて閉じこもっていただけだ。

                     *

「お兄ちゃんの友達はみんな友達」
そんな天啓がやってきたのは、その席でだった。あの垣根のなさこそが羨ましかったのなら、私もそうしてよかったのだ。

そうしたいなら、すればいい。今、ここで。世界はいつでもそこにある。
そう思ったときには、信じていた。兄の友達はみな私の友達、と。私がやりたくてできなかったことが、一瞬でできた。あの夜にはなんらかの魔法がはたらいていた。

酒を飲んでほろ酔いになりながらAのことを思い出した。単にふと、思ったのである、Aに会いたいなあなんて。葬儀や法事の席とは不思議で、会いたいと思う人こそいなかったりする。なぜならそれはその人の葬儀だから。ああ今日は楽しいななんて会の趣旨も忘れて楽しんで、今度はAも来ればいいのに、なんて思って、そのAこそが、いなくなったことを知る。そうさとる一種異様な瞬間が、私にこんなことをつぶやかせた。

「ねえ、お兄ちゃんの友達は、みんなお兄ちゃんなんだよ、A」

Aがいなくて寂しい。I miss you という英語がある。「寂しい」「恋しい」などと訳されたりもするが、あれは不在に関する言葉だ。あなたの不在が寂しい。「私はあなたを失っている」「私はあなたを欠いている」。あなたのかたちの不在は埋められない、あなた以外では。会いたいよ。ねえまた会いたいよ。

私がAを尊敬したのは、10年以上の長い闘病生活の間、反応ができなくなるまで、友達が見舞いにくると話をして楽しそうに笑った、というところだ。30代後半でAは倒れた。それからずっと、見舞いを断ることが、Aにはなかった。周りは働き盛りの年代だし、外には楽しいことがたくさんある。なんたって、身体が動くってことだけで本当は純粋に驚異で歓びなんだ。焦りも妬みも感じるかもしれない。私だったら、自分がベッドに縛りつけられている間に、元気で外で活躍している友達が来たりするのを、嫌がるかもしれない。断ってしまうかもしれない。
自分が「惨め」な姿をさらしながら元気な人間を見たくない、と私なら思うかもしれない。

                      *

Aの丹力、みたいなものを思う。人の力は、強くあるときにだけ見せられるものではない。一見最も弱い状況の中に、最も強く尊いものがありうる。それを十年以上も、見せ続けられたことに。

「ただ在ること」を、Aは見せた。見せ続けた。
自由にならない身体。しかしそれは確実に、在るだけでひとつの宇宙とすべての時空を内包している。それは友人や家族にとって、在るだけで記憶でもあるし、或る出来事に関するAの視点や感情は、Aの中にしか存在しない。それが失われるとき、記憶の一部は永遠に失われる。

「お兄ちゃんの友達はみんなお兄ちゃんだよ」
A本人に、そう言えばよかった。伝えればよかった。たとえ本人が嬉しいともなんとも思わなかったとしても。
人が生きて、死に、残された者を再びつなぐ。
死は悪ではない。
でも、生きているときにしかできないことが人にはある。

2011年2月 7日 (月)

春の雨

日曜日の昼は、まぶしい曇りの日になった。こういう空を長いこと見ていない気がした。
夜、久しぶりに東京にまとまった雨が降った。
大気が回り始めている。
もうすぐ、雨上がりの中に沈丁花が香るだろうか。

2011年2月 5日 (土)

白い春

 中国をはじめアジア各地では今が旧暦の正月だ(ヴェトナムでは今年は猫年なのだそうで)。
 とはいえ私が旧暦を意識してみたのは今年が初めてだ。

 節分、季節を分けるとはよく言ったもので、体はこのころたしかに春を感じ始める。
 旧暦を意識してみると、私もまた地球の生物である感じが取り戻せる気がする。

 香港の友達(種違い腹違いの実の弟と勝手に呼んでいる)にメールを送ったら、「開年飯」というのを皆で囲んでいるという返信が来た。

 節分から、少しあたたかく、ずっと晴れて、空が高い。

 気がついたんだけれど、春の光って、白い。
 それは新暦のお正月から兆しがあって、私がお正月に感じてきたあのぽかーんとした感じ(元日のブログに書いた)の正体は、この白い光だったんだと今は思う。
 その白い光が文字通り「白けた感じ」がして、以前は好きじゃなかったのだけれど。
 母にこのことを言ったら、今の季節を表すのに「光の春」という季語があるのだと教えてくれた。

 梅が咲き始める。昔、日本人が花と言ったら梅だった。百花のさきがけ、梅。
 今書いている小説にそんなことを書いていたら、今日、梅の花に出会った。
 日本人はいつからか桜に入れあげすぎて桜だらけにしてしまったけれど(ソメイヨシノはいくらなんでも多すぎないか!?)、視界にぽつんと咲いて「春だよ」とそっと告げるような梅の花には、なんとも言えない風情がある。

 雪深い丹後にいる大好きな友人が、梅の木の写真を送ってきてくれた。
 雪の重みで枝を折られながらも、それでも花をつけ始めたと。

 これから光はもっと白さを増すだろう。そしてもう少しすると白の質が変わり、重くなって、やがて濁り、空が低くなってくる。
 あたためられた大気が動き、風をつくって自らをかき回し、雲を生じ、天気が変わりやすくなって雨が降りやすくなる。
 明るい曇りの日々がもうすぐやってくるのだろう。この高い空が続く毎日も、今しばらくなのかもしれない。そう思うといとおしい。

 みなさんに素敵な春が来ますように。

 そして今厳しい自然の只中にある人達に、春の光を。

2011年2月 1日 (火)

日本語的世界 英語的世界 〜ロボット戦争談 後日談

ロボット戦争シンポジウムの、後日談。

そこで知り合った人たちにお礼のメールを書いた。
そうしたら、ロボットの研究(軍事技術ではない)をしている人から最初に返信が来た。

「サッカーの日韓戦を見て興奮さめやらぬ頭で朝に書いています」

と、楽しい近況が導入だった。
日韓戦は私も全部見てしまったので(なにせ逆転に次ぐ逆転劇でPK戦にもつれこみ、日本がPK戦で勝つのを初めて見た気がする!)、興奮を共有して一瞬で仲良くなり、そのことをまた返信、しようとした。

と・・・面白いことに私は気づいたのであるよ。

日韓戦、などの「戦」に当たる部分は、本来は”game"か”match”と言う。
その「ゲーム」に「戦」と当ててほとんど疑わない日本語と日本人の心性(私を含めて。「日韓試合」などと自然には言わない)。
それを考えてみるとなかなか興味深いのだ。

そのついでに考えるに、アメリカ人的頭には「戦」が「ゲーム」であるのかもしれない。

単なる思いつきとはいえ、どこか本質を突いているように思われる。
いい悪いではなく。

もしかしたら英語の「ゲーム」も、実は私たちが日本語ベースで想起するものと、少しちがうのかもしれない。

簡単な言葉のようだが、外国語の、ハートやはらわたにしみこんだ感覚までは、なかなかわからない。

そしておそらく言語が人のメンタリティに与えている影響は、言語を使う当事者たちが思うより、ずっと大きい。

ロボット戦争

先の1月22日、昔の師にウルトラ久しぶりに誘われて、「ロボット兵器に関するシンポジウム」というのに行った。師は、私が大学生のころ縁あって関わった研究者かつ物書きで、その書くものに私は大きな影響を受けている。師に私が弟子や生徒という認識はおそらくないだろうが、私にとってはずっと心の師である。

さて、シンポジウムの話は主に米軍だったのだが、そこでは兵器のロボット化が進んでいる。ロボット化は、無人化、リモートコントロール化も含んで進む。

曰く「自爆テロに対する答えはロボットだ」。

端的な風景は、無人攻撃機「プレデター」(「捕食者」の意)のパイロットの日常。
米本国某所にあるトレイラーを改造したコクピットに毎日「通勤」し、午前中はイラク、午後はアフガニスタンの無人機を操縦し、ロボットが送ってくる画像を判断し、ターゲットを見つけると、ボタンを押す。
一日のうち、彼に危険があるのは「行き帰りに運転する自動車だけ」。

戦争のこうした流れを湾岸戦争の「ニンテンドー・ウォー」に続いて「プレイステーション・ウォー」と形容するらしいが、プレイステーションに例えることはプレイステーションに失礼であろう。リモコン端末を使ったドッグファイトからさえ程遠く、撃ち返してくることのできない対象を空からリモコンのボタンひとつで撃つのだから。 
「ぽちっとな戦争」と呼びたい。
「ぽちっとな」ばかりボタンを押すと何万キロも離れた場所の対象が吹っ飛ぶのだ。何の実感もないままに。
かつて、米ソいずれかが核ボタンを「ぽちっとな」と押さないためにすべての外交努力や交渉や地域紛争や・・・・が行われていると語られた時代があったが、この「ぽちっとな」はひどく簡単に押せる。この場合地上の者や物はなんの抵抗もしてこない。抵抗のしようもない。

こうした爆撃に、誤爆が多く、民間人の巻き添えも増える一方らしい。
これに対するアメリカ軍の回答は、「誤爆ではない。戦闘員を識別する情報が不十分なのである」

まあ、誤爆である。

ブッシュ元大統領が辞任に当たって、イラク、アフガニスタンなどへの攻撃が間違いではなかったかと問われて「それ自体は間違いないと信じているが、情報の誤り(intelligence failure)があったことは残念だ」(大意)と言ったのと似ている。
その結果、世界がどうなったのか。その結果の世界を、私たちは今生きている。

そして世界の戦争の趨勢は、ロボット戦争となるのではないか、という。
そこでは「安全に戦争をすること」が可能になる。
アメリカ人の血を流すことなく、多大なコストカットにもなる。

オバマ現大統領も、国内の支持をとりつけるのと(同国民が血を流すことが少なければ国内の支持をとりつけやすい)、軍予算の縮小(数字上の)に必死なんだろう。大統領に就任した頃の輝きが失せてしまって、残念に思う。

これはやがて、米本国にテロリストを呼び寄せるだけだ。
時間はかかっても。そう、忘れた頃に。
それが9.11の意味だったと思うのだが。

テロは兵器で起きるのではない。
テロは「人」ですら実はない。
テロは、感情で起きる。

テロが戦闘員とがっちりイコールであるならば、そこで敵対している人をすべて殺せたなら終わるはずである。
しかし仮に敵対集団の戦闘員すべてを殲滅できたとしても、戦争は終わらない。
「感情」が連鎖するからである。
「軍隊を滅ぼすことはできるが、国民を滅ぼすことはできない」と言ったのはたしか毛沢東だ(プッツン前の)。
そして「感情」こそは、文化も国境も超えうる。

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