« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月

2011年3月 4日 (金)

49daysに追記

故人をしのぶことはいつでも意味があるし、死を想うことで生はより輝く。
ただ、四十九日の間は、その特定の個人のために「ゲート」が開いている。
だからそういうことをするチャンスなのであり、その人の生と死の恩恵が受けられる。

というのが、ちょうど幼なじみのAの四十九日の間にある私が聞いた話であり、腑に落ちたので、書きました。

49days

幼なじみのAのことを、先日のブログに書いた。Aは、私が初めてその骸を前に手を合わせ、その手を小さく振って、別れを告げた友人だった。

私は2月の6日にAの死に接するまで、実は、人が葬儀になぜ行くかを心底からは理解はしていなかったと言っていい。
葬儀に行くのはいい。一度しかない、できる限り行こうと思う、けれど私が行ったことを、当の死んだ本人は知らないじゃん? と思うのがたまらなく寂しかった。
葬儀は残された者のなぐさめのためにある。それが唯一私にできる説明だった。

残された者が葬儀を必要とする。これはひとつの真実だ。
けれど、Aの葬儀の参列して感じたのは、死者と生者が共存する、ある死者がたった一度だけ起こせる場の「何か」のことだった。
その場所では「何か」が開いていた。
そこに「いる」。純粋なエネルギー、力となって、働いている。
それは決して怖いものではなく、むしろとてつもない恩恵を残された者に与えてくれる。
死者は本当は、参列者におごそかかであれなんて望んでいない気がする。それはきっと生きてる者の側のおもいこみ。死者は私たちがふと笑っちゃっても許してくれると思うし、むしろうれしがるかもしれないし。

そんなことを考えていたら、符合することを聞いた。
仏教の法要に四十九日というのがあるけれど、ほとんど形骸化した儀式のようになっているけれど、四十九日というのは、死者のたましいがまだこの世界にとどまっている時間だという。
だからその時間に、死んだその人について考え、その人を讃え、自分の生を尊び、もし未消化な感情があれば統合しようと試みるのが、よいことなのだという。チベットでは、その期間、その特定の個人のために瞑想する。

誰かが死ぬとは、その人の物語が閉じること。けれど残された人間がその人について考え、感情を動かし、その人を讃え、あるいはその人の生に新しい解釈をもたらすことができたなら、その人の生の本に「あとがき」をつけてやることができる。そしたらその人は、より豊かな物語を持って帰れる。そして、それをできるのは生きている人だけだ。それは生きている人をも豊かにする。

ある人が、たとえば私でも、不在になるだけで、何かが起こる。
だったら生きている私は、最初で最後のこととして、ここに在るだけで価値がある。

誰かがいなくなることでその人の、自分の、生をかけがえなく思える。
悲しくはあっても、生に新しいパースペクティヴが生まれる。誰かが死んで、何故か自分が元気になっちゃうこともある。ささやかなことにかけがえの無さを感じたりする。生が輝き、その密度が上がる。そしてそれを堂々と喜び、受け取っていい。残された人間は。
自分が死ぬ時には、きっとそうするのだし。

死ぬことについて、少しだけ分かったことがある。何を残せたと思えなくても、自分が死んだことできっと、新しい何かが起こる。ひとつの木が倒れて森に光が差し、新しい木が育てるように。どんなささやかなものでも、奇跡は起きる。そう思うことで、私は少しだけ死を恐れなくなる。死を恐れなくなれば、生きることを恐れなくなる。

大事な人を亡くしたばかりの人がいたら、四十九日の間はその人のことを考えてみてほしい。意識してみてほしい。語りかけてみてほしい。思いがけないところから答えがあるかもしれない。

だれでも一度だけ、生まれて、一度だけ死ぬ。
死んだ人、死にゆく人は、みな勇者だ。
地上の誰も知りえない領域に入って行った。

勇者をたたえよう。

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »