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2011年12月17日 (土)

「師」について

 日経新聞の短いコラム「交遊抄」に、ものかきの師匠(だと私が思っている)生井英考先生のことを書かせてもらった。ご本人には、ほとんど事後承諾していただいた(汗)。

 そうしたら、生井先生の元教え子の方からコメントをいただき、とてもうれしかった。そのかたは、生井先生と直接言葉をかわしたことはないというのだが、それでもやはり、ご本人がそう思うなら、生井先生が師なのだと思う。
それでいいのだと思う。

「あの人のようになりたい」という憧れを、人の中に喚起する人が、「師」だと思うから。

 だとしたら、「師」とは、究極的には、何を教えるかでなく、「存在の在り方」を 示す人だ。

 そうか、「文体」をまねるというのにはそういう意味があったのだな、と思う。
 「文体」を「文の体」とはよく言ったもので、何を言うかより先ににじみ出るものが「体=存在」の部分にあり、それに反応していたのだ。

「師とは、自分もそうなれるという存在」

 と言ったのは、私の別の師である。簡単なようだが、この言葉は深い。
 師のようになれるのであれば、そうなることにも、ならないことにも、責任が生じる。

 若い時分には「誰にも教わったことはない」などとうそぶきがちで、例に漏れず私もそうした(私だけ?)。
 が、時を経てみると、私がどれほど人に憧れ、卑屈になったりもし、その人を真似しコピーし、身につけてきたかがよくわかる。その「師」は、友であったり、はるか年少者であったりすることもある。そしてそれを、しあわせなことだと今は思う。

 師がいることはありがたい。
 師に恥じない自分になろうと思えるし、自分もまた誰かに存在を示しているのなら(存在する限り、誰しもそうなのだ!)、よく生きようと思える。少なくとも、そう努力できる。

 「ダース・ベイダーはオビ=ワン・ケノービより強いが、オビ=ワン・ケノービがダース・ベイダーに負けないのは、オビ=ワンには師がいるから」
 という意味のことを言ったのは内田樹さんだが、その言葉が、今はよくわかる。「nikkei111210.pdf」をダウンロード

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