スポーツ

2011年8月 3日 (水)

「ありがとう」の呪い について

あ〜 仕事してるとなぜブログって存在を忘れちゃうんでしょう(T_T) 私の脳の容量が小さいからでしょうか、要領が悪いからでしょうか(T_T)

夏休みの宿題ばりに、前の日付のことを書くし・・・・

でも気を取り直してぼちぼちやっていこうと思います。

今日はなでしこジャパンと、それに対する反応のことです。

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友人が私に「優勝したなでしこジャパンに対して、 「おめでとう!」ではなく、「ありがとう!」というコメントをしている日本人が多かった。しかし日本語的には、ここは「おめでとう」を使うのが筋ではないか?」という質問をしてきました。そのことについて考えてみました。

いつごろからかははっきりわかりませんが、大 きな試合になればなるほど、その勝利や健闘に「おめでとう!」ではなく「ありがとう!」という言い方を日本人はするようになってきたと思います。これは 「感動をありがとう」「希望をありがとう」なのです。特に国際試合に顕著です。前回のWBCの優勝のときも、男子サッカーW杯健闘のときも、あるいはオリ ンピックの陸上男子リレー銅メダルなどのときも、言ったと思います。

健闘した人を讃えることより、自分が健闘を見て元気が出たこと主眼があります。そこに ものの見方の「重心シフト」みたいのが起こっていると思います。

ひとつにはやはり、不況の背景があるかと思います。明るい 話題が少ないから、というやつです。でも、もともとそうであった気もするのです。何かを見る人は、自分の体験としてみるわけで、自分に引きつけて考えな かったら、そもそもそれを見ないという気がします。だとしたら、プレイヤーを讃える「おめでとう」より、自分の体験としての「ありがとう」と言うのは自然なのですが。人が純粋に「おめでとう」というのは、誕生日や結婚や節目などの折に対してであり、純粋に相手のイベントであるときなのかもしれませ ん。

対して、TV中継される試合などは、半分以上は他人のために行われているのではないかと思います。これがもしメディア がからまない試合であったなら、もしかしたら純粋にプレイヤーをたたえるのかもしれません。たとえば親が子供が草野球の試合で勝って「ありがとう」とは言 わないと思う。

「ありがとう」と言う時、そこには<自分>がかかっています。

ゲームに公共性が高くなるほど、人はそこに抽象的な何かを仮託する。国とか、郷里とか、自分の苦境とかを。そこに「ありがとう」が発生するのではないかと思います。

「ありがとう」というからにはそれは、相手のことに見せかけた自分のことです。<代理なんとか>の匂いがします。

「ありがとう」はいい言葉とされていますが、案外エゴイスティックな、危険を孕んだ側面があるのではないかと疑ってみる視点があってみてもいいと思います。

同じくサッカーの男子ワールドカップで、オウンゴール(当時日本語で「自殺点」と言った)をしてしまったプレイヤーを、帰国した空港で自国ファンが射殺するという事件が以前ありました。射殺のそのとき犯人が言った言葉も「ありがとうよ!」でした。

誰かに自分を仮託し、自分は座して期待する気持ちと、それに応えてもらった礼として言う「ありがとう」は、簡単に反転しうるのではないでしょうか。

その意味で、なでしこジャパンの受難はこれからかもしれないし、これからこそ、浮き沈みがあろうと彼女たちを応援し続け、今夏言った「ありがとう」を反転させることなく見守るのが本当の応援者でしょう。

そして、こうしたすべてを取り払っても、なでしこジャパンは素晴らしかったと私は思います。このことは明記しておきます。