文化・芸術

2012年2月 5日 (日)

「東京プリズン」について

「東京プリズン」って小説は、21世紀の『英霊の聲』(三島由紀夫)を書きたいと思って、書いた。
ひとつの国民や民族が、戦争によるあれだけの喪失を、数十年で忘れたかのようにふるまえるのは、やはり異常なことだ。
そこに、なんとか少しでも、言葉を与えたかった。

あれほどの喪失に言葉をちゃんと与えられなかったことが、今回の震災や原発事故後の世界にどう向きあうかにも、影を落としているんじゃないだろうか。
けっこうまじめに、そう思う。
原子力発電にいたっては、もろに敗戦の落とし子だしね。

ひとつのおわりとはじまり

2月3日、「東京プリズン」という小説の最終回を終えた。
2年3ヶ月連載していた(河出書房新社の文芸誌『文藝』)作品で、その象徴的なテーマが「冬を終わらせる」ということだったので、気がつけば節分に終わっていたのが感慨深かった。
翌日、立春は、春がくる日だから。

途中、とうてい終えられそうもなく思えたり、終わろうとしても話のほうが終わってくれないことがあったりして、物書きなんて、最後には根性しかないぜと思った。どんなことも、そうなんだろうけどね。
最後には(あるいはことのはじめに)、決めることと、覚悟しか、無いんだと思う。
いろんなことを教えてくれた作品だった。
小説を教えてくれた作品だったかもしれない。
2年3ヶ月の背景は、私が30年間抱えた問題というか鬱屈というかだったのだけど。
終わるときには、終わるもんだ。
30年前には、人生で30年という時が過ぎるなどと考えなかった。30年抱える問題があるなどとも考えなかった。
そんな人生詐欺だと言いたくなることもあったけれど。
でも、30年前より今のほうがずっといい。


2012年1月18日 (水)

東京プリズン

文芸誌『文藝』(河出書房新社)に連載してきた小説「東京プリズン」が、やっと終わる兆しを見せた。
はぁ〜。
次が最終回。終わりそうで終わらず、何度も、話が私を離してくれない、みたいなことを繰り返して、2年と3ヶ月くらい、書いてきた。
始めた頃にはまだもちろん、東日本大震災なんて起きてなかった。

これは、戦争と戦後、そしてそれが私たちに今も落としている影のことを考える小説です。
私の個人的な体験が核となっているけれど、フィクションで、「セルフ・フィクション」とか呼んできた。

これを書いている間じゅう、いつも余裕がなくて、終わらなければ、先へいけない気がしていた。
散髪なんかにもたまにしか行けず、巷の「女子」なる概念などとは程遠い生活。

ひとつたしかなのは、私たちは、あまりに大量の死に対して、物語(言葉)を与えなかったということだ。
あまりに大量の死に直面した時こそ、人は新しい物語を必要とするのに。
「神話の更新」と言ってもいい。
それをするかわりに物質やマネーを崇拝した末に、今の状況はある。

先の戦争に対してそれを行えなかったことが、今回の大震災の語りにくさにもなっていると思う。

日付が変わってしまったけれど、1月17日は、阪神淡路大震災の日。
失われたものたちのために、生きている者は何ができるだろう。

2012年1月15日 (日)

そうなるものなら、そうなる。

今日、お芝居に一緒に行った先輩が言った名言。

 「そうなるものなら、そうなる」

すごい。
Let it be とその未来形、という感じ。

うん! なかなかこの境地になれなくて、いじくりまわしたり、変な努力したりしてしまうんだよね〜。
なぜ、開こうとするつぼみをむきたがるような行為を、人は、自分に対してはするのだろうね。

彼女は、私が今年度のはじめ(2011年4月)から始めた、教える仕事の先輩で、私にとって数少ない、そして心から「先輩」と思える人。
そういう人に出逢えることはしあわせだ。
学校で教える仕事を始めたことが、私にとって今年度いちばん大きなことかもしれない。そのことは、また書きたいと思う。

私は「創作・小説」というものを教えている。
初年度の教師、それも私のような無手勝流の者に当たってしまった生徒たちは、かわいそうに思うのだけれど、あと三ヶ月足らずの間、私が彼らに何をできるか、考えたい。
生徒になってくれている人たちに感謝する。
私は出逢う人々から学んでいるだけの者だ。

2012年1月 4日 (水)

新年のご挨拶とお雑煮と

あけましておめでとうございます。

今年はこのブログを頻繁に更新したいと思います。
どうぞよろしくおつきあいください。

お正月、何をしなくてもお雑煮だけはつくります。
細胞の記憶のように、お雑煮をつくってしまいます。記憶喪失になっても作るのではと思うほど、お雑煮だけは、大晦日から元日になると体がそわそわしてつくり出します。
母親がつくったようにつくりますが、母親がつくったもののほうが、美味しいといつも思うのは、誰にとってもなのかもしれません。

私は東京の杉並の出身で、鶏がらベースのお醤油味、澄んだ薄茶色のスープ。具はあっさりと、小松菜、鶏肉、三つ葉、お餅は角、好みで柚子の皮をトッピング、といったところです。
鶏がらの澄んだスープは、東京っ子好みの味なのか、東京ラーメンと呼ばれるもの、たとえば私が育ったのと同じ区の有名な(一部でかもしれないけど)荻窪ラーメンなども、あっさりと澄んだ鶏がらがベースです。

鶏がらは、「もっとだしが出るのに、もったいない」というところで引き上げないと、まずくなる。そこが、なんとなしに、江戸っ子の末裔好みかなと思います。

中学生ころまで、1月15日くらいまでは朝にお雑煮を食べていたほど、私は自分の家のお雑煮が好きでした。
そんなに好きなので今年、いろいろな人に、生まれ育った土地のお雑煮をきいてみました。
これが実に多種多様です!
ベースが私の家と同じでこれに焼のりを手でもみかつお節と一緒に入れる(ちょっと海に近い地域)、アゴ(とびうお)だしにブリ、すまし汁に蒲鉾、餅も角餅、丸餅の別があり、最高にエキゾチックなのは白味噌に餡入り餅というもの、すまし汁に具がどっさり入っていくらまで入っているもの、などなど、本当にヴァリエーション豊富でした。

お雑煮は「雑煮」というその名が示す通り、その地域でとれる多様なものを、汁というひと椀の中に合わせて、新年に食すという文化なのだと、人々にきいてみて、わかりました。
多種多様でありながら、ひと椀の汁ものに統合する、という作法が共通しているのも、見事です。

日本は多様性の国なのだと感じました。
雑多と言えるほどに多様でありながら、底に統一性が流れています。

そういうことは、忘れられているけれど、私が何はなくともお正月にお雑煮をつくるように、細胞の記憶のように持たれていると感じます。
そういうものを、再発見し、表現したいと、近年考えてきました。
日本人の誇りを取り戻すということでもあるけれど、それは、精妙すぎるほどに精妙な感覚。
だからこそ、表現されるべきだと思っています。
小説でも、コラムでも、私の求めることの一系統に、確実にこれがあります。
今年も追っていきたいと思います。





2011年12月17日 (土)

「師」について

 日経新聞の短いコラム「交遊抄」に、ものかきの師匠(だと私が思っている)生井英考先生のことを書かせてもらった。ご本人には、ほとんど事後承諾していただいた(汗)。

 そうしたら、生井先生の元教え子の方からコメントをいただき、とてもうれしかった。そのかたは、生井先生と直接言葉をかわしたことはないというのだが、それでもやはり、ご本人がそう思うなら、生井先生が師なのだと思う。
それでいいのだと思う。

「あの人のようになりたい」という憧れを、人の中に喚起する人が、「師」だと思うから。

 だとしたら、「師」とは、究極的には、何を教えるかでなく、「存在の在り方」を 示す人だ。

 そうか、「文体」をまねるというのにはそういう意味があったのだな、と思う。
 「文体」を「文の体」とはよく言ったもので、何を言うかより先ににじみ出るものが「体=存在」の部分にあり、それに反応していたのだ。

「師とは、自分もそうなれるという存在」

 と言ったのは、私の別の師である。簡単なようだが、この言葉は深い。
 師のようになれるのであれば、そうなることにも、ならないことにも、責任が生じる。

 若い時分には「誰にも教わったことはない」などとうそぶきがちで、例に漏れず私もそうした(私だけ?)。
 が、時を経てみると、私がどれほど人に憧れ、卑屈になったりもし、その人を真似しコピーし、身につけてきたかがよくわかる。その「師」は、友であったり、はるか年少者であったりすることもある。そしてそれを、しあわせなことだと今は思う。

 師がいることはありがたい。
 師に恥じない自分になろうと思えるし、自分もまた誰かに存在を示しているのなら(存在する限り、誰しもそうなのだ!)、よく生きようと思える。少なくとも、そう努力できる。

 「ダース・ベイダーはオビ=ワン・ケノービより強いが、オビ=ワン・ケノービがダース・ベイダーに負けないのは、オビ=ワンには師がいるから」
 という意味のことを言ったのは内田樹さんだが、その言葉が、今はよくわかる。「nikkei111210.pdf」をダウンロード