エッセイ

2016年10月 2日 (日)

【石牟礼道子さんと面談する件で、お願い】

私は、『苦海浄土』の解説を書いたことがご縁で、10/13、14に熊本に赴き石牟礼道子さんにお会いします。


『苦海浄土』は今こそ読まれるべき本だと私は思っていて、そのために自分が何かできたらと願っています。


『苦海浄土』は、福島や沖縄など、現在の日本の問題に対し道を示してくれる先人の貴重な記録であり、こんにち大切さがいや増しているテキストです。


この面談にご興味をお持ちのメディア関係者、私の水俣面談紀行にご興味を持つ編集者、これを取材したいと思われる方、など、いらっしゃいましたらどうぞ赤坂までご連絡ください。

また、ご興味がありそうな方があれば、話してみてください。

この投稿をシェアしてくださることも、うれしいです。

赤坂真理 拝

2015年9月10日 (木)

「想像してごらん」

新たな安保関連法案の参議院での審議を待つしかない今。
これは7/15に毎日新聞に載ったインタヴューなのですが。

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2015年7月24日 (金)

私たちの民主主義

鶴見俊輔さんが亡くなった。ひそかに私の心の支えだった思索家であり、書き手であり、運動家だった。
「鶴見俊輔。リベラルということばはこの人のためにある、と思える。どんな主義主張にも拠(よ)らず、とことん自分のアタマと自分のコトバで考えぬいた」
というのは上野千鶴子さんの追悼文の一節だが、胸に迫る。

先日私が受けたインタビュー(朝日新聞朝刊7月24日掲載)でも、鶴見俊輔さんに言及した。
私たちの民主主義ということを、自分の頭で一から考えようとするとき、私がいつも思い起こすのは、鶴見俊輔さんだったから。

その記事は、訃報とほとんど同じタイミングで載った。

鶴見俊輔さんに捧げる。
何か呆然としてしまい、「ご冥福をお祈りします」なんて言葉も出てこない。

http://www.asahi.com/articles/DA3S11875046.html

2014年10月10日 (金)

今月今夜のこの月を

今日10月10日は、私の両親の結婚記念日。
10/10というこの日を、私も私のきょうだいも、不思議と忘れない。覚えやすいからかもしれない。

以前この日が体育の日だったのは、東京オリンピックの開会式だったことにちなむ。
そもそも開会式がなぜこの日だったかというと、晴れの特異日だからだと思う。
圧倒的な、晴れの特異日。
いつ晴れ、いつ風が吹き嵐がくるか、それはただの確率ではなく、天体の運行にのっとっている。当たり前のことに、今さら気づく。
今日も快晴だった。
ーーしかし、特異日ってこう書くの? 得意日だと思っていたのだけど、Googleフェップはこう言うのだったーー

今年も結婚記念日のお祝いを母に言ったら、返信メールに思わぬ発見があった。

私は、今年の三月に母を横浜のニューグランドホテルに連れて行って一夜泊まった。という話を、自分の本に書いた(『愛と暴力の戦後とその後』エピローグ)。
両親の思い出の地と聞いていたので、一緒に行きたかったのだ。
私はそれが、両親が「デートした場所」だと思っていたのだが、そうではなかった。
言われてみれば、当時、ホテルのラウンジでデートするなんて習慣は、なかっただろう。

横浜ニューグランドホテル(当時はグランドホテル)は、まさに今日、目白の椿山荘で式を挙げた両親が、新婚旅行に行く前に、泊まった場所だった。
いろいろ話した。次の朝に羽田から発ったこと。羽田に父の妹が見送りに来てくれたこと。「七日帰りは仏事だから避けなさい」と祖母(父の母)に言われて八日目に帰ってきたこと。

今月今夜。
ひとつの月を、父母は横浜で一緒に見た。それは、二人が結婚して、初めて見たひとつの月。
そのときの月齢を見ると、10。半月から一日。少潮。満ちてゆく月。
今日の月は、満月から2日、皆既日食の次の夜の月。
まわりてめぐる季節。人は去りてまた来る。
月は今も、そこにある。

ありがとう。
おめでとう。

2014年7月31日 (木)

セッションが終わって

内田樹さんとのトークイベントが終わり、家で夜中にぼけらーっとしてる。
内田樹さんは憧れの書き手であり武道家であり、彼の言葉、

「戦争は撤退戦によって記憶される」
 (正確ではないけれど、私の記憶に刻まれた言葉)

こそ、私が、天皇の戦争責任やらなんやら文芸作品の先行例がほとんどない領域で、ものを書くときの支えだった。
私は撤退戦をやってやろうと思ったんだ。大それてるけど。ほとんどモノ知らずの馬鹿力だけど。

  七月、このイベントのために生きてた感じがある。
終わればあっけないし、終われば至らなさばかり思い出される。
けれど、今日はちゃんと呼吸はできていたな。呼吸が浅くもならなかった。
それだけ?
いや、呼吸し続けるってすごく大事。当たり前のようだけど、無意識にも息を詰めたりしてないって、すごく大事。
 (呼吸のことは、別の機会にまた書いてみます。内田先生と個人的にした面白い話なども)
以前、自分の師匠とガチンコで話すとき「次に言うことで頭いっぱいで相手の話を聴いてないのだけはやめよう」と思ったら、聴くことはできたけれど、相手の話が盛大にずれていこうが止められずに、ただ相手の話と自分の呼吸を観察する行のようだった、てなことがあった(笑)。
そこからすれば私も、少しは進歩したにちがいない(笑)。よしとしよう(笑)。

この様子は、文芸誌の『文學界』に載ります。
加筆があるので、そこでもまたセッション。観てくれた人にも面白い読み物にします。

いろんな人に来ていただき、支えていただき、うれしかったです。ありがとう。このブログを読んでくださった方にも。ありがとう。

2014年3月25日 (火)

Happy Birthday!

今日3月25日、やっぱりどうしても言いたいこと。

紫苑ゆうさん、お誕生日おめでとうございます!!!

(紫苑ゆうさんは、私の人生最大のスターです。
 どういう方かは、2013/1/31のブログにあります)

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=78564685&blog_id=670146



↑.....ココログがちゃんとリンクはってくれるかなあ? 
もうすぐ新書の仕事が手を離れるので、そうしたら、ココログをやめて他のブログかHPにしようと思います。
お楽しみに....誰かしてくれるか、なあ(^^;)。それでもね、お楽しみに。

 

2014年1月 1日 (水)

新年の抱負、というか

あけましておめでとうございます

大晦日に、私が大好きな宝塚の元トップスターの話を書きました。
紫苑ゆうというそのトップスター
(現在は宝塚音楽学校の先生です)は、読んでくださった方の90%以上にとって、見知らぬ人であったであろうにもかかわらず、いろいろな方が、その方なりの感応をくださいました。
人にある普遍的な、恩寵のような瞬間に触れていたのかもしれません。
出来事だけをとれば「私は掃除で出てきた古いCDを聴いた」、それだけです、が、それだけのことが時に、人生を変えるような体験ともなる。
すべての体験に対してオープンでありたい、あらためてそう思います。

そのような瞬間を持てたのは、紫苑ゆうさんの生きる姿勢とも関係があったのだろうと、今思います。
それが時空を超えたのだろうと。
紫苑ゆうさんは、ずっとこういうふうに言っていました。

「私は、朝生まれて夜死ぬ」

その言葉に触れたとき、驚きました。
まるで禅の高僧のような台詞だと思ったからです。
禅に「一日暮らし」という考え方がありますが、まるでそれだと。
自分のしていることを極めた人に、たまに、高僧も裸足で逃げ出すような哲学に達した人がいますが(イチローなんかもそうです)、その例だと思います。
事実、そういう姿を周囲にそして舞台で、見せていました。

瞬間瞬間、一呼吸ごとに、完結するような生き方。
今この瞬間に、どの瞬間に、死んでも悔いはない。
そんな生き方。

私は、そう生きられているだろうか?
いや。

そんな生き方をしたい。
2014年です。
今年もよろしく。

(動画は紫苑ゆうが二番手だった時代のものですが、いちばん、紫苑さん個人と宝塚歌劇の雰囲気が伝わると思ったので、これにしました。1’51あたりに降りてくるのが紫苑ゆうです。テロップも出ます。やっぱり綺麗〜。そして私にとっては、特別な声と存在感です)


http://www.youtube.com/watch?v=elzysEaELLc&list=PLIkA8pfZsKzy3hhQPDJiADGWT9g3SrkfL

2013年12月31日 (火)

2013年最後のあいさつに代えて〜「永遠」ということ

私は、ブログを書くのが本当に苦手だ。と、今年の最後の日にあらためて思う。
何を書いたらいいのかわからないんだもん。
距離感がわからない。
誰かがそこにいると仮定して、その誰かに語りかけるような文章が私には書けない。私生活の出来事を書く気もしないし、それに誰かが興味を持つとも、持ってほしいとも、思ってない。
もっと言えば、他人の私生活に多大な興味を持つのは、自分も他人も、健康なことだとは思えない。

だからFacebook(みんなでいいとこ見せ合うあのホームパーティみたいな)もあんまり好きじゃないし、すぐにディスり合いや炎上になる掲示板もできなかったし、Twitterに至っては、アカウントだけ持ったまま、しない、っていうかできないっていうか。
「依存症の気味があるんですよね」と言ったら、湯山玲子さんに、「それはTwitterは絶対×10000,しないほうがいい」と、おもいっきり止められたのだ(笑)。
広告や出版やイベント業界の一線で活躍してきた湯山玲子さんに止められるというところが、説得力ありすぎてTwitterは開店休業状態(こんなところで名前をだしてすみません、湯山さん。でも、さすがに湯山さんは正しいと思う。私がTwitterにハマったら、炎上させないまでも、他のことが何もできないのは見えてる)。

本当に下手だなあと思う、自分。でもそれが自分なのでしかたない。

私の文章はずっと、いるかいないかわからない人に対しての、「いてほしい」という、祈りのような文章だった。
それは虚空に投げる言葉。
瓶に詰めて海に流す手紙。
誰かが読んでほしい。誰かに届けたい。でも誰に届くかなんて知らない。
物心ついてからというもの、場違いな舞台でズレズレの芝居をしている役者みたいな感じがしていた。だから私の文章は、基本的には、やっぱり祈りだ。

もし、私の文章を読んでくれている人や、このブログが更新されることを楽しみにしている人がいたら、謝ります。
私には、読んでくれる人との距離感はうまくわからないけれど、そんなブログでもいいので、これからは書いてみようと思う。
ブログやSNSっぽい文章は書けないけど、コラムや本当のつぶやきと思えば書けるだろう。そういう文章のほうがエネルギーがいるけれど、そうしか書けなければ、そう書くしかない。

今年の終わりに、クリスマスの日の出来事を書きたいと思う。
誰かが読んでくれたら、やはりうれしいと思う。

☆ ☆ ☆

クリスマスの朝。
すごくすごく久しぶりに、あるCDを手にとって、聴いた。
何年ぶりだろう、もしかしたら、十年とか、そういう単位だったかもしれない。
それは、私が大好きだった宝塚星組のトップスター、紫苑ゆうの退団公演(1994)のレビュー演目だった(宝塚の舞台は、一般的には、劇とレビューの二本立て)。
タイトルを『ラ・カンタータ!』という。
私は宝塚歌劇を愛していたけれど、それは、紫苑ゆうとほぼ同義だった。
宝塚歌劇を好きになったというより、紫苑ゆうに出会って宝塚歌劇を好きになった。

その朝に限ってなぜ『ラ・カンタータ!』を聴こうと思ったかはわからない。ずっとそこにあったのだから。
クリスマスだったからかもしれない。
そこに赤い燕尾を着たサンタ、じゃなくて紫苑ゆうが、いたから?
きらきらスパンコールが生誕祭のきらきらした空気とよく合っていたから?
私はクリスマスを、イエス・キリストの誕生日というふうには、あまり思っていない。昼がいちばん短くなる冬至の頃に、太陽の復活を願って行う世界各地の祭りを、教会が利用したんじゃないかと思っている。
でも、太陽の新生にはふさわしい日だ。

『ラ・カンタータ!』を私は手にとって、ステレオのディスク受けに置き、リモコンで再生した。
そして、まあ普通に、家事なんかし始めた。
それはごく普通の一日だった。
そのとき。

時間と空間のすべてが変わった。
時の流れが不意にゆっくりとし、空気の粒子が細かくなって、まるで手に取れそうに、そこにあった。

紫苑ゆうが歌い始めたのだった。

彼女と初めて出会った瞬間、そして2013年クリスマスの朝の瞬間。
まるで違うのに、全く、同じだった。

彼女との初めて出会いも、こんなだった。テレビの劇場放映が、実家で漫然とかかっていて。
彼女の二番手としての最後の演目『紫禁城の落日』。最後のパレードに彼女が階段から降りてきて歌い始めたとたん、私は、そのときしていた雑事のすべてを止めて、バッと振り返ったのだった。
振り返ったその時から、一ミリも動けず、息も継げずに、見た。
というより、私の全てで、体験した。産毛を逆立てるようにして。

その瞬間と、今この刹那。
全く違うのに、全く同じだった。

「永遠」ということの意味が、少しわかった。

私の師が、「永遠」について、こんなふうに言ったことがある。
「『永遠』とは、時間がどこまでもあるってことじゃありません。そういうのは地獄って言いませんか? 『永遠』とは、瞬間にすべてがあるということです」
その話を聞いたときは、ピンとこなかった。

けれどその瞬間に、すべてはあった。
それは、あれからほとんど20年経ってんのよねってことじゃなく、あの人たちはそれぞれに別の場所で生きて何歳でそれぞれ別々の人生を歩んでて、たとえば相手役だった白城あやかは今はタレントの中山秀征の奥さんで四人の子がいるのよね、なんてことでもない。

その瞬間は、今、ここにあって、今と一緒に今、ここにあって、時間は直線のようには流れず、連続していず、循環するでもなく、全ては今であり、瞬間であり、全ての瞬間は今ここに同時にある。
あの一瞬は永遠で、今と同じときにここに存在する。
この一瞬は永遠で、あの一瞬と時を超えて共振を起こす。
何かを追体験しているんじゃない。記憶の再生じゃない。
今ここでする、初めてのまっさらの体験。
共振。
なんのタイムラグもなく。

共振の一閃は、どんな思考も否定できない、上書きできない。
私が思考でいっぱいのとき、共振は起きなかった。そのとき私は音叉を握りっぱなしにしていた。

共振は、こんなふうに起きる。
それが起きるなんて期待していないときに。
普通にBGMかけながら家事なんかしようと思うときに。
だから、それはどんなときにでも、起こる。

CDはフィナーレにさしかかり、全員が主題歌を歌いながら大階段(といわれる舞台装置)を降りてくる壮観なパレード。
その歌を私はずっと、メンバーが歌い継ぐメドレーそのままに歌えた。逆に言うと、声色までをすべてそのときのパレードそのままにしか歌えない。宝塚歌劇の男役と娘役は、主旋律が一オクターブ違う。一オクターブの違いもそのままに、その歌はそういうものとして、私は今もそっくりそうしか歌えない。

頭のなかにあった記憶のほうが捏造されていることもあって、パレードの最初の歌手(エトワールと呼ばれる)を、娘役トップの白城あやかだと記憶していた。
でも、歌い出しからして、白城あやかじゃないと気づく。
構成を考えるなら、トップは最初には出てこないものなのだが、それより何より、声質と高音の抜ける方向が違うのだ。
出雲綾!!
娘役の中では年かさの役やちょっとヒール役を演ることの多かった実力派の娘役。
次が、真織由季(この人だったことは忘れていて、宝塚研究で知られる川崎賢子さんに訊いた)。でも声は覚えている。ちょっとワルっぽさとケレン味があり、確実で上手い、けれど特別に好きという声ではない、でも、この声でなくてはならない。次の稔幸は鼻にかかった声で出の拍をちょっと遅れ気味に歌う、続く麻路さき(男役二番手)ははっきりと歌が下手(麻路さきさんのファンのかたごめんなさい)だが、その歌も、ここにはこれでなくてはいけない。

人生に現れる、どんな人も、その人でなければならない。
どの一人が欠けても、その体験にはならない。

そしてトップスターが降りてくる。。
今初めて降りてくるように、降りてくる。

『ラ・カンタータ!』の意味は、「讃歌」。

☆ ☆ ☆

もうすぐ新しい年がくる。
でもきっと、区切りなんてないんだな。


2013年8月13日 (火)

お盆に想うこと

今日は乗らない日だった。自分を乗せたいのに、リズムに乗れない。それに、なぜか憂いが、払っても脇に寄せても、戻ってくる。

ん、戻ってくる? ああ、お盆だから? カウンセラーの友人が「この時期は空気の密度が濃くなる」と言っていたのを思い出した。
そうかもしれない。
別の友人に、メールした。
メールした友人曰く「去年、お盆のときに、あれ? お盆のときってこんなにキツい? と思ったので、数日前から用心してました」

そうか、そうだよね、いろんな存在が戻ってきているのだろう。それで空気の密度が濃いのだろう。迎えるはずの人が、忘れていつもと同じ日だと思っていただけか。

境が薄い時、とも言える。
さきごろ二人の友人がとつぜんにそれぞれ重い(私にとって)告白をしてきた。それも、こういう時だからかもしれない。

小さなころは、母親と一緒に迎え火と送り火をした。藁を燃やして、つかの間里帰りする魂の目印にする。火が小さくなるころ、生きている者たちはそれを飛び越して、健康を願う。暗い中、うずみ火が消えるまでずっと見入った。
そんなこともしなくなっていた。

ベランダにキャンドルを灯し、これを目印にしてねと、空に言った。
「生まれ育った家はもうないし、私も結婚してちがうところにいる。でも、真理の家はここですよ、帰ってきてね。お父さん、おじいちゃま、おばあちゃま、会うことのなかった伯父さん。会いたいよ、なぜここにいないの、どこにいるの、会いたいよ。会いにきてよ。友達もつれて、会いにきてよ」

蝉たちが、もう暗いというのにうるさく鳴いている。
すべてのあかりを消して、キャンドルだけを見た。生(き)のスコッチを舐めるように飲んだ。
そしてひとしきり泣いた。

2013年2月 8日 (金)

支えになっている言葉

あるとき、私の大事な人が、私に言ってくれた言葉。

「君が欠落していると思っているものは、リスが埋めて忘れちゃった
どんぐりなんだ。いつか、森になるんだよ」